地震と津波 安政の大地震

今回の東日本大震災により被害を受けられた地域の皆様に、

謹んでお見舞い申し上げます。

 

くれぐれもお身体にご留意され、一日も早く復旧されますよう

心よりお祈り申し上げます。

 

また亡くなられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 


 

安政元年大阪で起きた地震の記録があったのでまとめてみました。

この時に地震と津波で広範囲におきた被害が記録されています。

過去に被害に遭った地域は今後も被災する可能性が高い地域であると思います。

 

 耐震対策だけでなく津波に対する対応も考えておかれると、

今後予測されている東南海地震において減災につながればと思います。

 

 

安政元年の11月4日および5日(1854年12月23三日・24目)

日本全国を広く震わした安政の地震が起きる。

(安政元年は、嘉永七年が11月26六日(1855五年1月14日)に

終わった次の日に改元されて始まっており、嘉永七年は全体として

安政元年といって差し支えない)

 

 この時の震災の状態を理解するためには、

同年6月14日(1854年7月8日)の深夜から15日にかけて

伊賀の国を震源地とする直下型地震(推定マグユチュード六・九)が

大阪を襲ったことにも触れておかねばならない。

 

 この地震は上野・四日市・奈良・大和郡山などで多数の

死者を出すなど大きな被害を生じ、また、その周辺の広い

地域にわたっても大きな揺れをもたらした(『理科年表』)。

『大阪編年史』には「永代録」「鐘奇斎日々雑記」

「近来年代記」「嘉永六年地震記」「御触及口達」 

「菊屋町旧記」からの関連記事が七ページに

わたって掲載されている。

 

 まず最初の大揺れが発生した時刻。14日「夜九ツ時頃」

とある史料が二点、「夜九ツ時すぎ」とあるのが一点、

「今夜八ツ前」とあるのが一点。つまり、現在の時刻表示に

従えば深夜12時頃から午前1時頃の間である。

 

 現代的に言えば15日午前零時頃から1時頃となる。

また、大きな余震が15日は1日中何度もあったので、

14日から15日に大地震があったということになるわけである。

 

 この時の地震では、史料によれば死者は確認されていない。

ただし、「家めりめりとうごき」(近来年代記)とか、

「市中一同庭の石燈篭打ち倒れ、土蔵・建屋なども破損少なからず」(永代録)

というもので(米会所土蔵の大破、北御堂白書院の崩壊、

瀬戸物町では皿が多く割れるなど)、市民は大いに驚き、

表に出て夜を明かした。15日は一日商売・諸職とも休みとなり、

また、その夜前日と同時刻ごろには大きな地震が来るという

噂が広まり、空き地や浜辺あるいは大道に畳を敷いて避難し、

また川中に船を出して乗り込むなど1晩中眠れなかった人も多かった。

 

 お城の馬場、北鍋島浜など「広場のところはいずれも群集」

と書かれているし、また、川々は避難のための船でつまり、

大混雑を呈していた。ただ、天満天神と座摩祭礼のだんじりは

ひきだされ、見る人に勇ましく感じられた。

 

 ところで、昨夜と同時刻ごろまた大きな地震が来るという噂は、

「近来年代記」にも、また「嘉永六年地震記」にも記載されて

いるから、大坂市中にものすごいスピードで広く流布したものと思われる。

「嘉永六年地震記」の作者は、すこし落ち着いてから、こうした

噂に基づく人々の避難行動を取り上げ、特に、茶船・上荷船などを

借り受けての長堀・道頓堀など堀川への避難を、

「斯く押並らんでハ、すハといふ時こぐ事もならず」云々と批判している。

 

 市民の恐怖・狼狽ぶりは明らかであった。このような中で

神頼みの文句も、これまたすごいスピードで普及していく。

奉行所は十六日になって、被害状況の報告を命じるとともに、

「追々地震薄く相成、世情安心之体相聞候」と述べ、

火の元・盗難の注意とともに、噂に惑わされて恐怖しないよう

注意を喚起する触を発している。ただ、他地域における

地震の状況は知らせていないし、また川中への避難についても

特に注意はしなかった。

 

 ところで、大坂以外の被害については、人々はどうやって

それを知っていったのだろうか。後には伊賀・大和辺の被害が

より大きかったことを知る記事が、わずかだが見えているので、

知りたいところではある。

 

 地震騒動はこれでやがて収まることとなる。しかし、

船で川に避難し、それで無事だった経験が、11月4日および

5日の大地震のとき恐るべき悲劇を招く一因となる。

 

 この年の11月4日、朝五つ半刻(辰の下刻)今の時刻では

午前9時頃から10時頃までの間ごろ、6月の地震よりも

「三増倍」(「鐘奇斎日々雑記」)甚だしく、かつ長い地震が

大坂市民を襲った。

今度は、ほとんどの史料で時刻が一致している。

 

 震源地は遠州灘沖、マグニチュード8・4と推定される大地震で、

東山・東海・南海諸道の沿岸部を中心に大被害をもたらしたもので、

ロシア使節のプチャーチンの乗った軍艦ディアナ号が伊豆沖で

破損し、沈没したのもこの地震による。

 

 大坂市中では、浄久寺の堀・塩町佐野屋橋筋の塀などが倒れ、

乳母が子を抱いて死亡、石燈篭などはもちろん

、倒家もあちこちにあり、また、そこから出火した箇所もあったが、

しばらくして鎮火したという。

 

 この地震は、ときどき中ぐらいの震動があったけれども昼頃には

ほぼ落ち着く。

南組総年寄からは火の元注意の触が出されている (「菊屋町旧記」)。

 

 ところが、翌11月5日七ツ時頃か

七ツ半時頃(午後四時頃から五時頃までの間)、また大きな地震があった。

今度は紀伊半島沖に震源を持つマグニチュード8.4の大地震である。

 

 被害は近畿・中国・四国全部と九州・中部地方の一部におよび、

津波は房総から九州にいたる海岸を襲った。

 

 大坂でも揺れは四日以上に長く、激しいもので、幸い人命に

関わる報告はなされていないが、建物・土蔵・納屋・塀など、

各所にわたって潰れたり、破損したりした。人々の動転、

言うばかりもなく、家のうちにおることができず、船に乗ったり、

または浜辺・大道・空き地などへ逃げ、屏風などをひきまわし、

戸・襖をかこった。道路に小屋を立て、

「夜中賑々敷」(「鐘奇斎日々雑記」)有様で、

まさしく6月14日~15五日の状況を再現した。

 

 このとき、どことはなく「千万の雷落ちかヽる如く鳴りひび」

(「末代控」)くのを聞いた人、

「沖中雷の如くうなる」(「近来年代記」)のを聞いた人も

大勢いたはずである。

 

「しばしが程二して、高さ一丈余り大波かさなり打来たり、

天保山・市岡新田・木津川口大荒ニして、難波島・まへたれ

島一面に高浪打上り、此辺大船一同に大波二うかされ、

道頓堀川へ乗入」(「近来年代記」)

波の高さについては、一丈(約三メートル)ではなく、

二丈(約六メートル)としている記録のほうが多い

(「住友家史垂裕明鑑抄」「末代控」「浪速之震事」)。

 

 太陽暦で12月に入った頃から翌年四月頃までは、

海上の荒れを避けるためか、北前船などが陸続と

木津川口へ入り込み、浜辺に上げて囲い込まれるのが通例で、

明治11年の新聞にもその様子が描かれている

(『大阪日報』明治11年12月12日付)。

 

 また、船乗りたちがそこで大勢生活もしていた。

そうした大船などがこの時何般木津川・安治川の

河口付近にいたのか、正確には分からない。

しかし、それらが錨も切られ、あっという間に河口を遡り、

木津川については道頓堀川・堀江川・長堀川・立売堀など

にも押し寄せ、道頓堀については日吉橋・汐見橋・幸橋・

住吉橋・金屋橋を、堀江川については水分橋・鉄橋を、

長堀川では高橋を、立売堀でも高橋をそれぞれ押し壊し、

また、安治川筋では安治川橋をき崩れ、さらに堀川に

浮かべて避難していた屋形・茶船・上荷船その他の小船の上に

乗り上げ、それらをことごとく破壊していった。

 

 公儀への書上控によれば、千五、六百石積から四十石積まで

の船七八四般が以上の各所に乗り上げ、ほかに破船八九麹があった。

川中の小船等の数は分からないとある(「永代録」)。

 

 地震の難を避けようと、小船に乗っていた人はこれによって

大勢落命する。

「船卜共二微塵二砕ケ、藻屑ト為ル者数ヲ知ラス。

市中一同叫喚ノ聾、東西二瞰々トシテ、上町辺へ逃行クモノ

陸続蹟ヲ接ス」(「住友家史垂裕明鑑抄」)という状態であった。

 

 翌六日早朝より町奉行の見分があり、群集の中、取片付けにかかる。

公儀の指図によって、火消し役を先手として破壊した船を

それぞれ取片付け、沈んだ船を引き揚げ、また、役人村の人足

数百人程がてんでに小船に打ち乗って死骸を上げる。

一人ひきあげれば役所に持っていき、町名を調べてそれぞれに帰す。

 

町名の分からないものは千日墓所の前に運び、安置する。

5人、10人とかたまって上がることが多く、

「日々二百、三百人之死がい上り、みな夫々に御吟味有に、

大てい幸町・難波島辺の人々にして相しれ、また船人も有って、

水死のそうれい山の如くニして、日夜焼きとぶしなり」

(「近来年代記」)という状況で、死体の上がる日は

結局10日ほど尽きなかった・という。

 

 大坂三郷の町々人別帳に記載されている者について

溺死人数と行方不明数を書き上げた記録によると、

北組で122人(ほか行方不明三六人)、

南組で55人(ほか行方不明10人)、

天満組で35人(ほか行方不明18人)

(ほか行方不明64人)、つまり死者・行方不明合わせて276人

という数が示されている(「浪速之震事」)。

 

 これについては、同じく三郷人別にあるものに限って、

溺死人273人、うち男七八入、女一九五人という数字もある(「御触及口達」)。

これらの数字は若干異なっているとはいえ、先ほど見たような

死体確認のありかた等から判断しても、ほぼ正確なものかとも思う。

しかし、死者・行方不明者はこれらの人々に限るものではもちろんない。

 

大坂以外の他国から来ていた人、人別帳にない人、三郷以外の

近村の人々の死傷はいかほどであったのだろうか。

明確な記録はいま不詳である。

 

 4日・5日の地震による被害は、津波も含んで、

摂津の国に関しても、広く兵庫・西宮・灘・尼崎・西成郡・住吉郡

にわたり、大坂市中についてもあちこちで建造物等に

被害がでた(「浪速之震事」)。

現在、気象庁震度階級によってこの時の震度を推定してみても、

おそらく震度5以上あるいは六までいったのではないか

 

この震災において大きな火災が発生しなかったのが、

不幸申まことに幸運なことだったと思わざるを得ない。

当時の大坂は人家が密集し、江戸などとも同じよう に、

火災があればよく類焼し、大火となることもしばしばであった

(このことは明治になっても事情はそう変わっていない)。

 しかも地震の発生は冬場の夕方間近であったのだから、

本当に幸運と思う。なぜこの幸運がもたらされたのか

よくは分からないが、この理由を調べてみることは

案外重要なことではないかとも思っている。

 11月7日から被災者に対する施行が始まる。

この日惣年寄永瀬某よりの演舌で、

「地震二而家等崩れ、明地面二而野宿いたし

罷在候極難渋之ものへ、施行いたし度もの有之候ハヽ、

西寄合所ヱ可被申出候」(「御触及口達」)との指示が出される。

 無事だった市民の間では被災者への救援を

早くも申し出始めていたのである。

奉行所ではこれを集めて

「残家内井極難之ものヱ、追々伺之上割渡遣可申」との方向を示した。

 奉行所では惣会所から町役人を通して被災状況を

把握し、それによってこれを配布する方針を後日示している。

 市民の義援活動を知る具体的な記録としては、

12月6日、堂島米仲買人仲間が集金した

金一七両二分・銀二八匁一分三厘、銭七五貫文の

提供が今残っている(「永代録」)。

しかし、こうした義援活動がいつごろまで、どの程度

行われたものかよくは分からない。

 ところで、奉行所は被災者への救援に、また

被災からの復旧に自らの出費はしたのだろうか。

た、その金高はどれほどだったのだろうか。

そ の努力と指導力には若干の疑いを抱かざるを得ない。

奉行所の行動を検討するとき、「十一月六日酉の上刻」に

町内年寄を西寄合所へ召し寄せて江川庄左衛門の

行った口達の存在は見逃せない。そこには、

屋形船等で川中に避難することは、それはそれとして、

それをよいことに遊興がましきことをしてはならない等の

注意が示されている(「御触及口達」)。

 なぜこんなものが、大津波で大被害を出し市民が

泣いているときに出されるのか。あるいは、奉行

所から惣年寄に出されたのは、その一日前であった

のかも知れない。だが、そうだとしても、なぜ急きょこれを

修正することができなかったのだろうか。

ここに、状況に適切に対応できない当時の統治機構の

姿が見えているのではないだろうか。

 

 当時の市民は、今と同じように地震についての情報を強く求めていた。

はやくも、十一月六日には「一枚摺」がいろいろできて

いたことが「鐘奇斎日々雑記」に記されている。

  また、知り合い同士が手紙等で情報交換もしている。

こうした中で一四八年前の宝永の地震津波のことも、

やがて知られるところとなったのであろう。

そして、 その地震のことを忘れ去って、津波のことに

思い至らなかったことを強く後悔したものと思う。

いまも、大正橋きわに建つ安政の地震津波碑には、

このことが痛 切な言葉で刻まれているのである。 

 将来の南海地震等において、大阪でも震度5以上の

激しい揺れがあること、もしかしたら高さ六メートルを

越す津波があることに警戒すべきであることである。

 

 阪神淡路大震災で淀川河口部の堤防が破壊されたが、

もしその時津波が伴っていたら、埋立地が広がり、

地下街等が発達し、地盤沈下もある現在の

大阪はどうなっていたのだろうか。行政の在り方等も含め、

対応をとっておくべきことだと思う。 

 

 

 

 

参考文献

大阪春秋 第82号  特集 おおさかの震災と復興  大阪春秋社

 

 

 


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コメント: 1
  • #1

    宮崎正幸 (水曜日, 13 4月 2011 19:08)

    実家(大阪市生野区)の近所にある舎利寺という寺の入り口横に嘉永地震の供養の碑が建っています。 地震や津波という言葉が書かれているので気になり調べていたらこちらのHPにたどり着きました。 子供の頃から住んでいたのに全く気にならず2年程前に何気に字を読んでみると「地震」「津波」と書いてあり、その時はこの辺りで大きな地震があったんだなと思った位でした。

    ところが先日の大地震。。。
    おかげさまで詳しい事が良くわかりました、この先いつ来るかわからない東海地震に備えて行くこころづもりが出来ました。
    ありがとうございます。

    miya250xc@live.jp 宮崎正幸